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 Au0 
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 オーヴェール・シュル・オワーズの略図(参考文献1を元に)。 
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 Au0-1 
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 観光案内所でくれたパンフレットの一部。赤線は、以下に、コピーの写真のあるもの。 
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 Au0-2 
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 観光案内所でくれたパンフレットの一部。ゴッホの母への手紙の「La peinture est un 
monde en soi.」は、「絵は本質的な1つの世界である」(私訳)。 
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 Au1 
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 オーヴェールの(ノートルダム)教会。横にゴッホの教会の絵のコピーがある。 
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 Au2 
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 1890年6月に描いた。実際の教会の雰囲気ではなく、ゴッホ流の教会になっている。 
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 Au3 
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 実際の教会の中。時々、観光客が来るが、静かな普通の教会である。 
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 Au4 
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 「雨(La 
pluie)」を描いた場所 
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 Au5 
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 Au4の絵。当時の暗い気持ちが出ているが、ゴッホの絵が売れなかったことも分かる。 
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 Au6 
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 次の絵の舞台。先方にその絵が見え、老女が1人、ゴッホの絵の舞台を巡っていた。この麦畑付近で、自殺したという説がある。37歳であった。(1890.7.29)。 
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 Au7 
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 「カラスの群がる麦畑(Le champ de 
ble aux 
corbeaux)」。Au5に小さく見える。 
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 Au8 
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 この麦畑近くのゴッホ兄弟の墓には、時おり、個人や団体の、観光客が来る。 
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 Au9 
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 左が、ゴッホで、誰かがひまわりを献花している。右が、兄を支え、1年後に、33歳で亡くなった画商、弟テオのもの。兄の死により精神障害に陥り、ユトレヒトの精神病院で、腎臓病で、亡くなっている。周りの墓に比べて、兄弟の墓は、大変質素であるのが、痛々しい。Ici Repose は、ここに眠るという意味。 
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 Au10 
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 作品「オワーズ川」 
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 Au11 
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 町の中心に近い平凡な風景だが、次の絵の対象となった。 
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 Au12 
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 「ドーヴィルの階段(5人の人と共に)」 
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 Au13 
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 観光案内所。2階は、印象派のドービニーの美術館。 
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 Au14 
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 ゴッホが、自殺する前70日間、屋根裏に住んでいた「ラヴー亭」。ゴッホが仮寓して以降、長年ホテルとレストランを経営していたが、1985年にフランス政府により歴史的建造物に指定され、1992年から工事が行われ、ゴッホ当時の建物に修復された。ゴッホの部屋を見学するには、この左手から、この家の裏側に廻って、階段を上り、みやげ物品売り場を兼ねたところから、さらに階段で上に上る。 
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 Au15 
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 ラヴー家の長女のAdeline 
Ravouxのポートレート(1890)。 
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 Au16 
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 ゴッホの家の裏に、彼の略歴を説明した10数枚の看板の1つ。14歳ころの写真。 
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 Au17 
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 少し歩いたところに、オーベールの城またはレリー城(Chateau de 
Lery)がある。ゴッホは、この城の裏でピストル自殺をしたという説(Au0-1の場所20)と、Au6の麦畑で自殺したという説を違う本で読んだ。 
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 Au18 
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 そこにあったテントのレストランで昼食を取る。以前に来たときは無かったので、多くの結婚披露宴のために仮設されたのだろう。 
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 Au19 
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 城の庭では、カップルの記念撮影が、カメラマンとディレクターにより行われていた。 
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 Au20 
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 カメラマンが自分の近くに来て撮影し始めて、自分は動かず撮れる。幸あれと願う。 
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 Au21 
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 ラヴー亭の、道を挟んで、ほぼ向い側が「村役場」。ゴッホはここの絵も描いている。 
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 Au22 
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 オーヴェールの町役場。12時40分頃。 
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 Au23 
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 12時40分にはAu21のような状態であったが、2時間後に来たら、そこでは、1組の結婚式が終わって、その入口で、参列者が、後から出てくる新婦を待っていた。 
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 Au24 
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 近くのごく小さな公園にザッキン作のゴッホ像がある。いかにも貧乏で、苦労している絵描きという感じがでている。 
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 Au25 
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 城から少し歩いたところに、ゴッホの精神病の医者をした「ガシェ博士の家」がある。前回、入ったので、今回は、外から見にだけであった。 
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 Au26 
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 城の駐車場に戻ったら、城内でパーティを開くために、新婦が出席者の迎へていた。 
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 Au27 
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 教会の前のドービニー通りには、ドービニー(1817-1878)の銅像があった。 
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