| ●ソー公園(Parc de 
Sceaux)
             ソーについて初めて知ったのは、「キュリー夫人伝」などで、夫のピエール・キュリーの生家として、 
            また、ピエールが亡くなった後で、ここでキュリー夫人が暮らし、子供をその公園で遊ばせたことを 
            想像し、知ったのが最初であった。今回、行くことを計画して調べるまでは、ごく普通のパリの街中に 
            あるせいぜいルクサンブールブール公園ぐらいの大きさを想像していたが、実際、行ってみて、あまり 
            の大きさに驚き、歩き草臥れていたこともあって、ほんのわずかな部分しか歩けなかった。 
             
            エーヴ・キュリー著「キュリー夫人伝」(河野万里子訳、白水社)に、夫ピエール・キュリーが馬車 
            の事故で1906年4月19日に急死した後に、ピエールの父(*79歳)と、ピエールの実家のあったソーで 
            暮らすことになったことが書いてある。 
             
            「秋(*1906年)。マリーはケレルマン大通りに住みつづけることに耐えきれなくなり、新しい住まい 
            をさがしはじめた。希望は、ソーに落ちつくこと。はじめて出あったころにピエールが住んでいた 
            ソー――そして今は、彼が眠るソーに。(中略)マリーの第一の気がかりは、まず娘たちと義父 
            (*ピエールの父)が、心身によい生活を送れるよういにということだった。彼女はソーのシュマン 
            ・ド・フェール(*鉄道という意味)通り6番地に、特にしゃれているわけではないが、気持ちのいい庭の 
            ついた家を借りた。 
            老キュリー医師は、その独立したウイングに落ちついた。イレーヌは(*長女で、当時、9歳で、後に、 
            フレデリック・ジョリオと結婚し、1935年に夫とともに「人工放射性元素の研究」でノーベル化学賞を 
            受賞)庭に、自分で好きなように耕していい一角をもらって、大喜びだった。エーヴは(*次女で、当時 
            2歳で、「キュリー夫人伝」の著者で、アメリカに渡り、夫はノーベル平和賞を受賞し、102歳10ヶ月 
            まで生きた)子守りに見守られながら、芝生の草むらで大好きなカメをさがしたり、せまい小道で黒ネコ 
            を追いかけたりした。(*その後、義父が亡くなり、ランジュヴァンとのスキャンダル事件に巻き込まれ、 
            1911年にはノーベル化学賞を受賞する(2度目のノーベル賞)が、心身ともに疲れ、1912年1月からは 
            パリに移ることになった。結局、ソーには、5年強住む。以上、*は、私の註)。 
             
            主に見てみたいと思ったところは、キュリー夫人の家であったが、周りを走っていたら、駐車場が 
            空いていたのが、図(Sc0-1)の「入口」近くで、しかも、この地図上のどこにいるのか良く分から 
            なかったが、(後で考えると)赤線で示したところに沿って歩いた。春は、花見ができるという「白い桜」 
            並木の部分も歩いたが、満開のころはさぞ綺麗だろうと想像した。余りにも中が広いので、歩き疲れて、 
            キュリー夫人の家を探すのは諦めた。こんなに広大な公園が、よく手入れが出来ていて、日本では、 
            残念ながら、一般の公園に、こんな冨の余裕や心の余裕を注ぐことは未来永劫できないだろうと感じた。 
             
            ヴェルサイユ宮殿やヴォー・ル・コント城などの庭園を設計した有名な造園家のル・ノートルにより 
            設計され、200ヘクタールあり(東京ドーム42個分)、八重桜が100本以上あり、花見もでき、入場料無料 
            の市民の公園である。ソーは、パリまで約10 kmの人口約2万人のベッド・タウンであるが、こんなに 
            すばらしい公園に恵まれている。 
             
             
             
             
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